安行その昔(2)読売新聞社発刊の「明治・大正・昭和の読売新聞CD-ROM」から、「安行」について記されている過去の記事を紹介しています。 *おことわり 旧字体は新字体に、旧仮名遣いは今様に直すなどわかりやすく言い換えました。なお、明治初期の新聞には見出しがなく、読売新聞社が独自にタイトルをつけました。 ■鎮魂祭と冬牡丹=1895(明治28)年12月5日付朝刊5面
「来る十日埼玉県北足立郡安行村に於いて征清征台の役に戦没せる同村兵士のために盛んなる鎮魂祭を行う筈にて村長らより千家知事の臨場をも請求あり」戦没者供養の鎮魂祭を開くために、知事出席の要請があったという書き出しで始まっているこの記事は、百年以上も前の師走に掲載されました。 旧千円札の顔でおなじみの伊藤博文公=写真=の内閣のころで、前年(明治27年)の8月に始まった日清戦争がこの年4月、講和がなりました。やっと戻ってきた平和の年の瀬の安行村の様子を記したものです。当時の安行村について詳しく紹介されています。 「同村は郡中唯一の仙境にして、浦和を去る東方四里。地質花卉の培殖に適し、年々海外へ輸出せる百合(花根とも外人に賞嘆さる)は数十万円なり(明治二十四、五年のころより輸出を始めて、一昨年の輸出高は十七万円あり。従って今年は五十万円に及べり)」 安行村は、郡内で唯一の「仙境の地」。「仙境」とは、「仙人の住む土地、俗界を離れた清浄な土地」の意。浦和市から東へ約16キロ。見沼の田んぼを越えた遠くの地は、浦和大宮台地の南端に近く、雑木林に囲まれた場所だったのでしょう。地質は、関東ローム層の台地。赤茶色の粘土化した火山灰層で適度な保水性があり、花や樹木の栽培に適している。明治時代、すでに安行の地質は、広く世間に知られていたようです。 「村人はまた冬牡丹の培養に妙を得て、今やその花霜を凌いで豊かに咲き乱れ、その種類数十百の多きあり。一茎一花にしてその値は一円以上になるとぞ春畝候の如きも秋の菊に見替えて、この地の花には激賞の詩ことに多しとかや」 村民たちが霜を克服してフユボタンの栽培を盛んに行っていた様子が記されている。「立てばシャクヤク、座ればボタン」と言われるボタンは毎年、伸びた枝先に大輪の花を一個つける。このため高値で取り引きされていたようで、とりわけ、安行のボタンは激賞されたようだ、と記されています。 ユリもボタンも、あれもこれも、栽培に適するという土地の恩恵なのですね。(どら) Back |